槍ヶ岳開山 播隆上人【山を想う】
松本駅前の播隆上人の銅像は、近年市民の間でも親しまれています。 槍ヶ岳開山 の岳人として日本山岳史にその名を残す播隆は、浄土宗の念仏行者で、越中河内村(現富山県大山町)に生まれ、文政十一年(1828)七月二十日、四十三歳の頃に、地元小倉村の中田又重郎とともに槍ヶ岳に初登頂したとされています。
しかし、当時も、そのずっと以前も、地元の猟師たちは北アルプスのあちこちを歩き回り、熊やカモシカなどを獲っていました。明治期の記録でも、上高地の主と言われた上條嘉門次(ウェストンを槍ヶ岳に案内したことでも知られる)は、生涯でクマ80頭、カモシカ500頭は仕留めたと伝えられています。彼ら猟師たちは槍ヶ岳周辺なども頻繁に歩き回っていましたが、目的は猟なので、おそらく槍ヶ岳などを通りかかっても単なる岩の出っ張りぐらいの認識だったのではないかと思われます。
すでに近代アルピニズムの精神が確立されていた英国から来たウェストンは、明確に「登山」という意識のもとに色々な山を登ったわけです。そして、その記録を母国の英国で、書籍「日本アルプスの登山と探検」などにして発行し、「日本アルプス」の名を世界に広めたということで「日本近代登山の父」と称されています。
ところで、播隆上人はなぜ槍ヶ岳に固執し、非常な困難を乗り越えて登頂に至ったのでしょうか。宗教的動機だけだったのでしょうか。
どうもそれだけではなく「そこに山があるからだ」という近代アルピニズムの精神の先駆けだったのではないかと思われてなりません。だから、日本山岳史上にも「槍ヶ岳開山」の人として記録されているのでしょう。
ヨーロッパに生まれて近代社会を創造する精神的支柱となった迷信や伝統的慣習の桎梏を打破した冒険精神の発露であるアルピニズム。我々が楽しんでいる現代の登山行為には、その精神が脈々と流れてます。とりわけ日本のアルピニズムのメッカといえるこの地で、そんな精神を讃え、世に訴えよう、という試みも「山の日」の意義だと思うのです。