相澤病院 相澤孝夫先生の「あったまる話」

  1. コラム

相澤孝夫先生の「あったまる話」

オリンピック金メダリスト・小平奈緒選手を暖かく迎え入れ、見守り続けたことで改めて日本中から注目された相澤病院の相澤孝夫先生。先生は、一体どのような人生を歩んできたのでしょう。少年時代はどんな夢を抱き、医師になりたての頃は何を思っていたのでしょう。 

今までほとんど語られることのなかった相澤先生の昔話と、これからの夢をお聞きしたくて訪ねてきました。 

困っている人のために、愚直にまっすぐ。

▼目次
1.生活と医療は一体のもの
2.「断らない救急医療」を掲げるわけ
3.いつでも愚直に直球勝負
4.気付けば父と同じ医療
5.すべては困っている人を助けるため

 
あったまる話①

1.生活と医療は一体のもの

私の医療の原点は、祖父が開業し、父が戦後に継いだ相澤医院にあります。当時は今のように大きな病院ではなく、町の小さな医院でした。そして、私もまだ小さな子供で、よく父にオートバイの後ろに乗せられて、往診に連れて行かれたものでした。あの頃の住宅は長屋も多くて、六畳一間は当たり前でした。そこに具合の悪くなった人が寝ていて、父はその家の人と色々話をしながら診療しました。それから何が必要かを伝えると、必ず帰り際にこう言いました。
「いつでも呼んでくれれば来るからね」
家の人はとても喜んでくれました。「ありがとう、ありがとう」と、本当に感謝されました。でもお金はもらわないことが頻繁でした。代わりにお米やダイコン1本などをもらって帰りました。戦後間もない頃だったから、お金のやりとりがないことも多かったのです。それでも父は往診を続けました。人と人との出会いがもたらす温かさ。その共有こそが、父にとっての医療だったのでしょう。そして、私もその概念は引き継ぎました。というようり、それは自然と染みついていきました。だから私は、生活と医療は一体してあるべきだと、そう思うようになったのです。

 

2.「断らない救急医療」を掲げるわけ

父は直接来院した患者さんに対しても、何時だろうと対応しました。あの頃は戦争で負けた直後だったから、心がすさんでいる人も多くいました。松本の駅前でもよく喧嘩があって、怪我をした人が頻繁にやって来ました。牛車で運び込まれる患者さんも多くいました。荷台に布団が敷いてあって、具合の悪い人が救急車に乗るように運び込まれました。当時の相澤病院では牛車がやって来ると、誰もが一旦手を止めて駆け寄りました。薬局の人も検査の人も、事務員も看護師も医師も、全員が飛び出して布団をかつぎ、治療に当たりました。文字通り「チーム医療」です。そして、それは夜中だろうと関係ありませんでした。当時は病院と自宅が隣り合っていて、私は救急患者が来ると必ず目が覚めました。ですから鮮明に覚えています。父は本当に、何時でも診療にあたっていました。私が「断らない救急医療」を掲げているのはそういうわけです。父にとって、いつでも診療するのが当たり前だったように、私も困っている人が訪ねてきたなら、例えそれが何時だろうと、診療するのが医療の当然だと思っているからです。

 

3.いつでも愚直に直球勝負

実は、私は父から一度も「病院を継いで欲しい」とは言われていません。しかし、私は父の本心に気付いていましたから、高校を卒業すると東京慈恵会医科大学に進学しました。そして、大学を卒業すると松本に戻り、まずは信州大学第二内科に勤務しました。古田先生とはその時に出会いました。私がとてもお世話になった先生です。医局で肝臓の研究をしていた時、研究費を調達してくれた先生です。とても厳しく、しかし優しく、とにかく曲がったことを本気で嫌う方でした。口癖は「愚直に生きる」。そして、私と同じく野球が好きで、先生も私も医局対抗野球にはよく参加したものでした。医師としては尊敬できる方でしたが、ピッチャーには不向きでした。豪快なフォームで豪速球を投げるのですが、コントロールが悪いからストライクが入らないのです。すぐに四球で点が取られたものでした。それでも、いつでも堂々と直球だけを投げました。とても魅力的な古田先生が数年前に亡くなりました。私はお葬式に出ることができなかったので、せめて弔辞だけでもと気持ちをしたためました。そこにはこう綴りました。
「先生、僕は先生に教わった人生を歩んでいきます。名声や地位のためではなく、自分が正しいと思ったことを貫きます」

 

4.気付けば父と同じ医療

医局での肝臓の研究はやりがいがありました。いよいよ研究が新たな局面を迎えそうな時のことです。父に進行がんがあることが発覚しました。
「研究をやめて、すぐ相澤病院に戻りなさい」
古田先生にそう言われ、私もそう思い相澤病院に戻りました。
 

 
私が戻ってほどなくして、父は食事も摂れなくなりました。それでも、父は点滴を打ちながら回診を続けました。そして、口を開けば患者さんのことばかりを話し、本当に自分が余命三、四ヶ月と認識しているのか疑わしくなった程でした。一方で、父は私と二人きりの時はほとんど黙っていました。私も黙っていました。父との間には、必ずしも言葉を必要としなかったからです。とにかく一緒にいることが大切でした。きっとお互いが理解しあっていると、そう確信していたからでしょう。
 
結局、父は三ヶ月後に亡くなりました。とても大きな悲しみがやって来ましたが、しかし私にはそれに浸れる余裕はありませんでした。副院長に就任し、多忙を極めたからです。ほとんど家には帰れなくなり、病院に寝泊まりばかりしていました。妻が朝ご飯と着替えを持ってきてくれて、その時に洗濯物を持ち帰ってもらう。そんな日々が続きました。
往診は私一人が引き継ぎました。誰もやりたがらなかったからです。色々ありました。「苦しそうだから来て欲しい」。そんな電話があれば夜中でも駆けつけました。2階の寝室と1階の風呂場を、患者さんをおぶって行き来したのは一度や二度ではありません。ある時などは、家族があまりに心配だと言うものだから、どうにも帰れなくなって往診先に泊まったこともあります。本当に色々ありました。ただ、私はこうした経験から、医療がどうあるべきかを考え、実行に移してきました。

 

5.すべては困っている人を助けるため

私は院長になってからも、自分が正しいと思ったことを貫いてきました。陽子線治療の導入もそうです。手術はどうしても身体への負担が大きくなるから、手術が受けられなくて困っている人を助けたかった。それだけです。
人と人との関係がなければ、いい医療もいい医療ではなくなります。逆に、人と人との関係だけで、そこに技術がなければ医療とは呼べません。両方があって初めて医療として成り立ちます。
『病気を診るのではなく、患者さんを診なさい』
これは私が卒業した大学の開学者の言葉です。相澤病院はこれで110周年を迎えますが、どれだけ医療技術が発達しても、こうした大切なことは見失わないよう心がけていきます。
よい人間関係の上に発揮された正しい医療こそ、質の高い医療です。私はこれからも、父のように困っている人を助けるために、古田先生のように信じるべき道を愚直にまっすぐ歩んでいきます。

 
社会医療法人財団 慈泉会 理事長
相澤病院 最高経営責任者
相澤 孝夫
http://www.ai-hosp.or.jp/

年に1回しか会わないのなら、
30年も余命1ヶ月も同じ。親孝行、しよう。

親子の老後に安心したい方へ

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