フリーペーパー「コンパス」【連載小説】 幸せのコンパス(第1話)
日向穂志は、北を指さない不思議なコンパスを持っています。では、そのコンパスはどこを指すのか。それは、掌に乗せた人が願っているものの在り処です。日向は、そんなコンパスを使って、困っている人を導いていきます。
フリーペーパー「コンパス」でお馴染みの連載小説「幸せのコンパス」をお楽しみください。
——登場人物—————
日向穂志(ひなたほし):僕。主人公。北ではなく、幸せの方角をさすコンパスを持つ。
日向月子(ひなたつきこ):主人公の妻。
長田将大(ながたまさひろ):ながた寿司の店主。保志・月子と同級生。40歳。
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その日、僕は40歳の誕生日で、同級生の将大が営む寿司屋にいた。寿司屋なのに蕎麦もおいしいと評判で、昼は蕎麦の客でごった返し、夜は寿司の客で賑わった。でも、その日の夜はなぜか、午後八時を回っても客は僕一人だった。
誕生日に男一人。
そう言うと多くの人が独身を想像するだろう。しかし、僕は21歳で結婚していて、妻は美しく、大きな家もある。ただ、普通の夫婦と結婚の目的が違ったため、実は僕らの家は二世帯住宅なのだが、一階が僕、二階が妻と、二人家族の一世帯が、二世帯住宅にそれぞれ暮らしている。なぜ結婚したのか。たくさんの人が不思議がるけど、それは僕らの勝手というものだ。愛のために結婚する人もいる。財産のために結婚する人もいる。僕らは秘密のために結婚した。しかし、世間はどうにも知りたがりが多いらしく、将大みたいに噂話に関心のない人は少ない。たぶん、僕ら夫婦について何の詮索もしないのは、数多い知り合いの中でも彼一人だった。
将大が好む話題は決まっていた。「類似」やら「似ている」、あるいは「盗作」だ。その日もそうだった。僕の頼んだコハダをリズミカルに握りながら「世の中には自分のそっくりさんが3人いるんだってな」と言うから、僕はほろ酔い気分で聞き返した。
「ドッペルゲンガーのことかい?」
「何だって?」と、将大は怪訝な顔をした。そして「寿司屋ではビール以外の横文字は控えてくれ」と冗談を言いながら、瑞々しく輝くコハダを出した。
僕はすぐにそれを頬張って、言った。
「ドッペルゲンガーとは、自分自身を見る幻覚のことだ。芥川龍之介の短編小説”二つの手紙”にも登場する。さすがにビールほど有名な単語じゃないけど、それなりに日本でも浸透している言葉なんだが」
「そんなことはどうでもいいんだよ」と、将大は言った。「言葉なんてどうでもいい。ただ、いきなり自分にそっくりな人間が目の前に現れたらどうなるだろう、って話さ。お前ならどうする?俺だったら――」
と、将大がそこまで言いかけたとき、店のドアが開き、老夫婦二人が現れた。一目で庶民ではないとわかった。のれんから顔をのぞかせる姿、ドアの閉め方、歩き方、椅子の引き方、座り方。何気ない所作から服装まで、全てが優雅で上品だった。二人は顔立ちも整っていた。しかし、夫人はにこやかな顔つきだったが、紳士は難しい顔をしていた。彼は椅子に座るなり、低い声で言った。
「あまり時間がないんだ。お勧めを二人前握ってくれるか?」
「時間がないことはないでしょう」貴婦人は言った。「もともと、今夜は二人で食事をする予定でしたでしょ?」
「だから」と、紳士はさらに低い声で言った。「先ほどから言っている通りだ。私は携帯電話を探している」
「あら驚いた。携帯電話がないと帰るんですか?今日は結婚50周年ですよ」
「帰るとは言ってない。手短に、と言っているだけだ」
「自分勝手ですね。会社でもいつもそうなんですか?」
「お前が会社のことに口を――」
と、紳士が言ったところで、将大が「あの」と口を挟んだ。
「あの……いま一番欲しいものは、本当に携帯電話なんですね」
老紳士は「そうだ」と頷いたが、貴婦人はすぐにそれを否定した。「いいえ、お寿司ですよ」
僕は思わず笑いそうになったが、将大は婦人に「ありがとうございます」と真顔で頭を下げた。そして僕を指差すと、紳士に言った。
「彼のコンパスを使いませんか。不思議な話ですが、彼の方位磁石は北を指さずに、欲しいと願った物の在り処を指すんです」
紳士は言った。「私にそんな話を信じろと?」
「いいえ」将大は首を横に振った。「ただ、自分としては携帯電話が見つかって、ここでゆっくり金婚式を楽しんでもらいたいだけです」
「君は何を手に入れた?」
「自分は使ったことがありません。幸せは回り道をすればするほど大きくなる、そう思っていますから」
「なるほど」と、紳士は顎をさすりながらうなずいた。きっと彼にも幸せの哲学はあるのだろう。しかし、この件だけは例外であることを、何とか自分自身に言い聞かせようとしているようだった。
紳士は少しの沈黙の後、言った。
「私の携帯電話には、平均すると10分に一回、つまり1時間に6回ほどの着信がある。仕事の電話だ。一方、留守番電話に録音音声が保存できるのは最大で20件。それを超えると古い順に消去されてしまう。ただ、私はその一番古いメッセージをどうしても消したくないのだよ」
僕は訊ねた。
「いつケータイがないことに気付いたのですか」
「およそ二時間前だ」と、紳士は答えた。
僕は思った。ということは、そろそろ見つけておかないと、最初のメッセージは消えてしまう。
そこで僕は(どうにも守りたいというメッセージが、どんなものかが気になったが)幸せのコンパスと名づけた小さな方位磁石を紳士に渡した。「これを手のひらに乗せて、欲しい物だけを心に思い描いてください」
意外にも、紳士は何も言わず従った。すると、コンパスの針は勢いよく回り始めたが、すぐに回転は緩くなり、やがて貴婦人の方角を指すとピタリと止まった。
「まさか」と、紳士は呟きながら、婦人の後ろを通り過ぎようとした。しかし、紳士が彼女の背面を通り過ぎても、針は婦人を指し続けた。立ち止まる紳士。それでも彼女は「我関せず」という様子で、背筋を綺麗に伸ばし、微動だにせず座っていた。
「ひょっとして、携帯電話は君が持っているのか?」
紳士がそういぶかしむと、夫人は優しく微笑んだ。「私を疑うんですか?」
「いいや」紳士はかぶりを振った。「今日初めて会った若者と、50年一緒に暮らす妻。どちらの話を信用するかなど、火を見るより明らかだ」
「そうですよね」と、貴婦人は小さく笑った。しかし、その笑みには僅かに悲しみが潜んでいて、彼女は重たげな息を一つ吐き出すと、静かに言葉をつないだ。「本当は、今日くらいは仕事抜きで、のんびりしてほしかったんですけどね」
そして、彼女はゆっくり立ち上がると、おもむろにバッグから携帯電話を取り出した。折りたたみ式の古いものだった。それを見た紳士は素早かった。ひったくるように携帯電話を奪い取り、あわてて開く。
「着信は21件。留守番電話は……20件!」
紳士は血相を変えて、誰のどんなメッセージなのかを確認もせず、新しいものから順番に消去していく。
「いいんですか、内容を聞きもせず削除して。大事なお仕事かもしれませんよ」
婦人はそう声をかけたが、紳士は答えなかった。鬼気迫る眼差しで、とにかく無言で消去し続けた。やがてお目当てのメッセージに辿り着いたのだろう。紳士は再生ボタンを押すと受話器に耳を当て、固唾を飲んでメッセージが流れるのを待った。僕たちも一言も喋らず、呼吸音にも気をつけて、静かにその様子を見守った。日頃から電話の音量は大きいのだろう。しばらくすると、録音メッセージは漏れなく全員の耳に漏れた。
「お蕎麦、食べにいきませんか」
それは婦人の声と思しきメッセージで、たった一言、それだけで終わりだった。
お蕎麦、食べにいきませんか--たったそれだけ?そう思った僕は、つい堪えきれずに口走っていた。「どうしてそのメッセージが大切なんですか」
紳士は嫌な顔一つせず、日だまりのような優しい顔をして答えた。
「夏目漱石が”月が綺麗ですね”と訳した英語の原語を知っているかね」
僕は黙って頷いた。
「それと同じことだよ。男女二人が50年も一緒に暮らしていれば、二人にしかわかりえない言葉も生まれる」
「お蕎麦に特別な思い入れがあるんですね」と、僕は訊ねた。
「ある」と、紳士は力強く答えた。「私たちが初めて出会って、初めて一緒に食べたのが蕎麦だった」
そのとたん、僕は優しい空気に包まれた。潤い、輝き、ぬくもり、愛おしさ。全部をいっぺんに感じることができ、きっとこれが幸せなんだろうな、と思ったが、次の瞬間、僕は我に返り将大に言った。
「蕎麦、打った方がいいんじゃないか」
すると将大は言った。彼も彼で、違うことを考えていた様子だった。
「打つよ。もちろん打つ。今夜は人生で最高の蕎麦を打つ。でも、その前に教えてほしい。夏目漱石が訳した”月が綺麗ですね”って、もともとはどんな英語だったんだ?」
僕は紳士と目が合って、その後、婦人とも目が合った。二人ともどこか照れているようだったから、僕が将大に説明した。
「I love you」僕はそう言うと、もう一度繰り返した。「夏目漱石はI love youを”月が綺麗ですね”と訳したんだ」
その夜、僕が家に着いたのは午後11時を回っていた。あんなに楽しんだのはどれだけぶりだろう。そう思った。それでも、どうしても思い出されてしまうのは、将大の「世の中にはそっくりさんが3人いる」という言葉だった。
ドッペルゲンガーを見ると死ぬ。
それは昔から、まことしやかに語り継がれている伝説だ。それがこの世に3人もいるなんて--。と、そんな妄想を頭で展開していると、普段はあまり鳴らない携帯電話に着信が入った。将大からだった。
「本当に情けない。こんなに情けない話はないんだが、お前のコンパスの力を俺に貸してくれないか」
僕はとても混乱した。将大は今まで、決してコンパスの力に頼ろうとしなかった。つい先ほども「幸せは回り道をするほど大きくなる」と言っていた。そんな彼に、一体何があったのだろう。何だか嫌な予感がする。僕の胸騒ぎは静まることを知らず、ただひたすらに大きくなるばかりだった。
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