フリーペーパー「コンパス」【連載小説】 幸せのコンパス(第4話)
日向穂志は、北を指さない不思議なコンパスを持っています。では、そのコンパスはどこを指すのか。それは、掌に乗せた人が願っているものの在り処です。日向は、そんなコンパスを使って、困っている人を導いていきます。
フリーペーパー「コンパス」でお馴染みの連載小説「幸せのコンパス」をお楽しみください。
——登場人物—————
日向穂志(ひなたほし):僕。主人公。北ではなく、幸せの方角をさすコンパスを持つ。
日向月子(ひなたつきこ):主人公の妻。
長田将大(ながたまさひろ):ながた寿司の店主。保志・月子と同級生。40歳。
後藤 一樹(ごとう かずき):巨大企業「後藤建設」の長男。通称・ゴッド。
濱 源治(はま げんじ):気品漂う老紳士。
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僕の不思議なコンパスは、掌に乗せると、その人が願っているものの在り処を指し示す。だからそれを聞きつけて、僕のもとには色々な人がやってくる。四十年来の友人で幼なじみの一人、ゴッドもそうだった。彼は十年間イギリスにいて、その間は何の音沙汰もなかったけど、昨日突然、僕の目の前に現れてコンパスを求めた。
「イギリスで有名な占い師が言うんだよ。日本に戻れば、進むべき方向がわかるだろう、って。だから思い出したのさ、お前のことを。いや、正確に言うと、お前の持つコンパスをね」
それは光栄だね、と僕が言うと、ゴッドは笑って手を差し出した。それで僕は、素直に彼の掌にコンパスを乗せた。針はいつも通り勢い良く回り始め、やがて東の「昼寝丘」を指して止まった。正式には「空海山古墳」と言って、地図にもそう記載されている。歩いて五分で登頂できる小さな山だが、春になれば斜面一面に桜が咲き乱れ、丘全体がピンクに燃える。
昼寝丘まではそんなに遠くなかったから、僕らは歩いて向かうことにした。
道中の会話は楽しかった。というより、驚きの連続だった。中でも目玉が飛び出そうになったのは、ゴッドが働いていたということだ。後藤建設の御坊ちゃまは、てっきりイギリスで遊んで暮らしていると思っていたが、実は渡英して、ユーチューバーとして活躍していたというから驚いた。ユーチューバーとは、動画サイトに動画をアップして、試聴回数に応じた広告収入を受け取る職業だ。最近の子供たちにも、サッカー選手、医者に次ぐ人気職業で、トップクラスのユーチューバーともなれば億単位を稼ぐ。
「俺はこれでも中堅クラスでね。さすがに億には到底届かないけど、年収は上場企業の部長クラスくらいはある」
そう話すゴッドに、それはすごい、と僕が感心すると、彼は続けた。
「ただ、最近は方向性がわからなくなってきてね。自分がどんな動画を作りたいのか、何をみんなに見てほしいのか。それこそ、さまよう子羊さ。だからこうして、お前のコンパスに方向性を教わろうと思ったわけよ」
そんなゴッドの目は、何だか少年のようだった。
僕らが昼寝丘の山頂に到着すると、まるで出迎えてくれるかのように、電車の警笛が遠くから聞こえた。一時間に一本、この街と松本をつなぐワンマン電車だった。昔はあれに乗って、みんなで高校に行ったんだよな。と、ゴッドのつぶやき声が聞こえたが、僕は聞こえない振りをした。事故のせいで、僕には二十歳以前の記憶がないからだ。
と、その時だった。
「おい、あれ!」
とゴッドが叫んだ。彼の指先の方を見る。すると、そこには線路の上で仰向けになっているお年寄りがいた。おそらく、認知症による徘徊だろう。
「おいおい、昼寝丘の脇で昼寝か!」
ゴッドは興奮気味に声を上げると、バックからカメラを取り出した。キヤノンの一眼レフだった。そして、それを慣れた手つきで右手に持つと、勢い良く古墳の斜面を下り出した。
「ちょっと待てよ!カメラなんか持ってどうするんだよ!」
僕が叫ぶと、ゴッドは走りながら言った。
「ロバート・キャパさ!彼は〈崩れ落ちる兵士〉という写真を撮った戦場カメラマンだ。人が撃たれた瞬間をカメラに収め、脚光を浴びた」
僕が黙ってゴッドの後ろを走っていると、彼は何かに取り憑かれたように独り言を呟き始めた。
「すごいぞ、すごいぞ。人が電車に跳ねられる瞬間だ。これは話題になるぞ。すごいぞ、すごいぞ!」
それを聞いていて、僕は何だか気分が悪くなった。だから転ぶのを覚悟でゴッドに追いつくと、肩をつかんで彼を止めた。何をするんだ!と彼は怒鳴ったが、僕は何も言い返さなかった。正直に話すと、言い返せなかった。ゴッドは肩を震わせて泣いていた。
「ロバート・キャパだって、目の前で人が撃たれるのを、ファインダー越しに待っていたんだ!」ゴッドは息を弾ませ、むせびながら叫んだ。「でも、正直言うと、こんなことはできない。俺には絶対無理だ。この事故は、きっと撮影する価値がある。線路は危険だ、という啓発活動になる。徘徊の恐ろしさも訴えられる。でも、いくらそう思い込んでも、俺にはできない。だって、もし今、俺が走ってあの爺さんを抱え上げれば、彼の命は助かるんだろ?」
うん、と僕が頷くと、ゴッドは「ちくしょう」とカメラを手放した。
「ちくしょう」
ゴッドはもう一度そう呟くと、斜面を転がり落ちるカメラには一瞥すらくれず、今度は今まで以上のスピードで斜面を下り始めた。
「ちくしょう、ちくしょう、何で俺は鬼になれないんだ!だから俺はダメなんだ!」
ゴッドはそう叫びながら、麓の線路まで走った。そして、下りきったところで線路に飛び込み、お爺さんを抱えて線路の反対側に転げ落ちた。本当に間一髪だった。もう三秒遅ければ、何もかもが手遅れになった。
僕が遅れて線路に辿り着くと、ゴッドはお爺さんの脇で正座していた。何だか懺悔しているようだったから、僕は惜しみない拍手を彼に送った。これはとても良く晴れた、とある冬の日の出来事だ。
実は、この話には続きがある。僕はその三日後、この時の一部始終をテレビで見た。最初はてっきり、誰かが偶然撮影していたのだろうと思った。が、その映像が流れた後、ゴッドがインタビューを受けていて、その内容を聞いて吹き出した。彼の話をまとめると、こうだ。
手放したカメラが斜面を転げ落ちる際、何らかの偶然で電源が入った。そして、そのカメラが奇跡的に、救出劇の一部始終を撮影していた。
まさに、ゴッドらしい神がかった所業だ。
「命より大切なものはない」
ゴッドが少年のような目でそう語ると、カメラはスタジオに戻された。そして、アナウンサーが少しコメントをはさむと、CMに入った。
それで僕はケラケラ笑った。最初に流れたCMは「後藤建設」、彼の父が経営する会社だった。
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